くうきあなのはなし

愛は孤独を救わない

愛憎天秤

「トッポジージョ」と言った、その独特の滑舌と声を覚えている。

幼い頃、祖母の姉にあたる人ーーおばさん、と書くけれど、おばさんは大晦日を我が家で過ごしていた。

おばさんには家族がいない。つまり、夫も子供もいない。

夫とは死別、子らは先立って、孤独の身になった。

そんなおばさんだから、血縁のある私の祖母が住まう我が家で年越しをしたのだ。

 

私がその時気に入っていた、モルモットのぬいぐるみをカゴに入れて遊んでいると、おばさんは、小さな人形を取り出した。

なぜ人形があったのか覚えていない、何かのキーホルダーだったのかもしれない。

その愛嬌ある姿に、私は喜んだ。それで、おばさんは、「知らんのか、これ*****やで」と言ったのだ。

*****が聞き取れなくて、私は聞き返した。

おばさんは、ゆっくりと、「トッポジージョ」と言った。

 

その音の響きが面白くて、何度も何度も「トッポジージョ!」とケタケタ笑っていたことを覚えている。

 

それは単に私が幼かったからというだけかもしれないが、暖かな時間だった。

今になって振り返れば想像に難くないように、昔気質で気が強い祖母は、母のことは召使いのように思っていたし、父は裸の王様みたいな亭主関白で、トッポジージョのおばさんもまた、血縁のない母のことは愛していなかった。

 

愚痴を聞かされた日もあったが、水面下であった嫁姑対立で母は苦しむ一方で、それでもやっぱり負けん気が強かったから、母と祖母は、タメ口だった。

母は祖母に言いたいことを言った。

仲が良かったとも悪かったとも言えない。父への不満のこととなれば、どうにも母と祖母が一致団結してしまうところもあった。

母は、祖母と「親子」と間違えられたことがある。

 

看取りの時、祖母は最後に、「良い嫁だった」と言った。

自身の娘のことよりも、息子のことよりも、毎日病院に通って、食欲のない祖母に美味しいご飯を届けた母のことを、一番に肯定した。

 

母はその時のことを振り返って、「思えば良い嫁だと思われたいがために一生懸命だった、それはいけないことだった」と言っている。

まあでも、祖母はそれで喜んでいた。

肝臓癌で食欲がなくなって、食べられなくて、死期が迫って、そうしたら、誰だって美味しいものが食べたい、と思うだろう。好きなものを。どうせ死ぬなら。

 

ある日は、祖母の好物(高級品ばかりであった)の「あわび」を買ってきて、七輪で焼いて食べた。焼いている様子を見て、嬉しそうに笑っていた祖母の顔が忘れられない。

 

祖母が亡くなって、更に祖母の弟も亡くなって、縁者のますます減ったおばさんは、それでもなお生きている。

90の大台を越えた。

幸いなことに認知症も発症していない。

それでも年齢相応に自活はできなくなるから、今や親戚の中で、どう扱うべきかという悩みの種になっている。

 

ホームへの入居を勧めているが、頑固な人なので、ひたすらに拒んでいる。

 

おばさんは、祖母とおんなじで、気の強い人だった。

だから、弟の嫁にキツくあたった。そのことが今、おばさんを「独り」にしている。

 

昔は特に愚痴をこぼさなかった母も、身勝手な人ね、とおばさんへ怒りを露わにすることさえあって、ああ、これは一体何なのだろうか、と思うのだ。

 

おばさんはお世辞にも、お世辞にもという修飾語でも不足なくらいで、砂粒ひとつ分くらい良く言おうとしたって、どこを見たって、自分勝手な人生を送ってきた。

それは、確かなことだと思う。

それ故に、因果応報と親戚一同思うわけだが、もし、可能であるならば幸せであるに越したことはない。

たとえ過去にどんな過失があっても、この90という衰えて、すっかり小さくなって、独りぼっちに無為に日々を過ごすおばさんを、敢えて不幸になるように導くことは、良いことであるとは思えない。

 

私が何も知らないからかもしれない。

読者の皆様も、親戚たちを思い浮かべれば、その姿は血縁者でありながら、それぞれ別個の家庭であり、自身が生まれる以前の知り得ない過去があることに思い到るだろう。

 

優しい日もあれば憎い日もある。

でも、どうしてだか、憎かった時のことばかり蓄積されて行くのである。

 

「******」が聞き取れず、聞き返した私に、ゆっくりと優しい響きで「トッポジージョ」と教えてくれた声が忘れられない。

 

ふと今日、コートのポケットに手を突っ込みながら、再生された声だった。

優しさが降り積もるなら、憎しみの山が高くても、その優しさのふわふわの雪をなかったことにしてはいけない。

 

「トッポジージョ」

 

 

 

 

 

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