くうきあなのはなし

愛は孤独を救わない

僕は大手を振って歩きたい

前回のエントリで、母が猫嫌いなので自分も猫が嫌いと合わせていた話をした。

皆さんはどうだろうか。

幼くとも自我はあり、好き嫌いはある。

 

ただ、親がもしカラスが白いと言って、黒いと反論すれば、いかにカラスが白いか説明される。

この面倒さ、おわかりいただけるだろうか。

だから、私は「うん、カラスって白いね」と言っていたのである。

 

どの親でもというわけではないだろうが、親という年齢になって培われた好みや、善悪の判断、人を見抜く力というのは、侮れないものである。

例えば男性に対してなど、一見してどのような人物であるか見抜くことができて、当たっていることも多い。

世間にはびこる差別にも、差別しないながらも差別対象を結婚相手に許さないというのは、娘も差別に巻き込まれる危惧であって、娘を守りたい一心であったりする。

 

だが、好き嫌いくらいは自由に言いたい。

抑圧された猫好きは子猫によって解放された。

猫柄の可愛らしいグッズを本能的に回避していた自分も、おそらくこれからは猫柄のiPhoneケースを選べるようになるだろう。

そして、きのこ類が(食べられないことはないが)苦手であることを主張し、すき焼きの具から撥ね退けることができるようになるだろう。なお松茸はこの限りではない。

 

好きか嫌いか、大手を振って歩きたい。

ただ、世間では「嫌い」に関しては口をつぐんだ方が賢明である。

それはまた別のエントリで。