くうきあなのはなし

愛は孤独を救わない

知能、発達障害、センター試験

またしても雪のセンター試験となった。

私のTLを見ている人も、自分のセンター試験に思いを馳せているかもしれない。

センター試験は人により得手不得手があるようで、いい思い出がないという方も多くいる。

 

試験というものは、たとえどのような形になったとしても、その試験が規定する形の知能、能力しか測ることができない。

多様化した能力が求められる社会変革の中で、それに合わせようとして教育の在り方、大学受験の在り方も変わりつつある。

私は塾講師をしていたから、個別に生徒に対応していく中で、この6年間の間に、駿台河合塾といった大手予備校から、個人のケアに特化した個人塾が小規模に乱立していったのを見ていた。

特に、医学部受験業界という、「実家の病院をつぐために、医学部に何年かかってでも合格したい」というタイプの生徒をターゲットとした分野で顕著であると思う。

 

そもそも知能というのは何だったのだろうか。

生物の講師をしていたから、数研出版に刻まれた文言は暗記している。

高校生物の教科書において、知能行動というのは「これまで経験したことのない問題に対して、これまで経験した物事より類推して対処する行動」であると書かれている。

私はこのフレーズから、そのような行動をするためには、物事のパターン分析、その後その類似性を見抜く力が必要であると考え、知能とは「パターンを見抜き同じパターンを同定する能力」と言えるのではないかと思っている。

だが、それも一つの考え方に過ぎない。

 

クリクラで外病院の先生に教わったのだが、能力というものの分野は多岐に渡る。

現代社会において必要な能力と縄文時代に必要だった能力は異なる。

現代社会では理系であれば計算処理、一般的にはコミュニケーションスキルが重視される。

しかし、縄文時代では狩をして獲物を捕まえる能力こそが必要だったわけで、「どんな能力が重視され、それが欠如していると落伍者のように見なされるか」ということは時代によって変わるということを教わったのである。

 

発達障害というのは疾患概念として新たに持ち上がり浸透しつつあるだけで、昔にはなかった新たな病気というわけではない。

現代社会において、求められているスキルが足りなくて、そのせいで社会生活を送ることを困難としている者に、発達障害という診断を下す。

なぜなら、精神疾患というものがそもそも、「そのせいで自分か他人が困る」という定義に基づいているからだ。

しかし発達障害はある特定の物事ができないだけで、ある部分では非常に秀でているケースもあり(どの部分でも秀でていないケースだってもちろん、ある)、そうした個人の能力パラメータの多様さは、発達障害者だけでなく、社会生活を送るに困っていない人間にも同じく当てはまるものである。

 

試験の話に戻そう。

試験というものはどうしても多様さを評価することに向いていない。

しかし、教育の場はその多様さに合わせられる。それはまさに、これから先は主流になるであろう個別教育のニーズに裏付けられている。

つまり、みんなが薄々感じ始めているのだ。

オーダーメイドの教育が必要であると。

 

アメリカではギフテッド教育といってIQが非常に高い者を選抜して教育するような事例もある。

公の教育において、オーダーメイドの教育をもたらすことは非常に難しいし、正直に言って実現不可能であり、また、「公教育を処方する側」である「彼ら」は自らが通ってきた道を正当化しその価値を引き継ぎたいという思惑もあるであろうと思う。

 

しかし一方でテクノロジーの進歩が明確に教育現場に変化をもたらしているのも事実だ。

実際私はiPadでほとんど全ての国試勉強をこなしている状態だし、タブレット端末の導入事例も耳にする。

個々の端末が個々人の「先生」となることができるなら、オーダーメイド化は夢ではない。

だが、その評価、つまり試験をどうするかということはこれまた難しい。

 

また、学ぶことそれ自体は別に学校へ行かなくてもできることである。

問題は社会生活を営む上でのコミュニケーション能力の獲得であって、これは今の社会がこんな状態である以上仕方のない問題なのである。

ただ、別に全員がサービス業に就くわけではないのだから、発達障害者が向いている職人的な領域への進路を踏まえた教育、評価の形もあってしかるべきだと思う。

 

センター試験への批判を耳にするたび思うのは、このようなことである。