くうきあなのはなし

愛は孤独を救わない

所有と非所有の狭間

本日は面談のために大学を訪れた。

つい最近まで通っていたはずの大学。もっとも、6回生になると外病院での実習が多くなったり、後半はほぼ国試勉強という自習に費やされるために、講義棟を歩くのは4年生の時が最も馴染み深い時間だったと思う。

特に研究室通いの時などは1日中いたこともあったくらいだ。

 

ま、それにしてもつい最近まで私が所属していた大学。

今日、顔認証のカメラを見てバッチリと講義棟に入ったわけだけれど、廊下を歩いて行く時まだ郷愁にもならない、塵のような、疎外感と言ってもいいような不思議な感覚に襲われた。

廊下のタイルが、階段の手すりが、あなたはもうここの人ではないのよと語りかけてくる。

追い出しコンパの徹夜明けの朝、鴨川で眺めた朝日に似ていた。

ここにあるはずなのに彼方にある。

時間が失恋を解決するように、何か心のあり方の変化というものは時間が作るものだと思っていたけれど、卒業式のような儀式というものもそのスイッチをいとも簡単に切り替えてくれるものだと思った。

 

ロビーに座っている学生を、引退したオーケストラを客席から眺めていた時のように見ていた。

私は、学生という身分を卒業したのだと思った。

 

京都では学生は大切にしてもらえる。

多少の羽目を外しても大らかさを持って対処してくれる。優しい世界。

OB,OGというのは、ふわふわと雲の上に乗っているかのよう。

懐かしみ、手を差し伸べることはできても決して下界に戻ることができないような。

 

私は母校愛を持っている人間なので、その空間を愛おしんでいる。

友達と語りながら駆け上がった旧図書館棟のBOXへ繋がる階段。反響する声。

東洋医学研究会の、生薬の染み付いた匂いの部屋。

入ればいつも誰かがいて、勉強していて、テスト前には泊まり込みで徹夜して。

ランナーズハイで夜明けを眺めながら口頭試問しあったこともあったかな。

 

苦労して入ったこともあって、大学の時間はとても長かった。毎日が濃厚だった。

そして、いつもああこういうことは二度とおとずれないんだろうなと思っていた。

その通りになった。

その通りになってしまったのだ。

 

ありがとう、母校。