スティーブ・ジョブズとiPhoneの美しいデザイン
初めてiPhoneを手に入れたのは、私が高校生の時だった。
Softbankから発売されたiPhone 3G。今でも部屋の片隅に眠っている。
起動してみると液晶は今に比べると粗いし小さい。
ジョブズさんだったかな。
ヒトは、何が欲しいかってことを自分で分かってないというような旨のことをおっしゃっていたのは。
ガジェット好きの自分にはiPhoneは最高に面白かった。
指で触ったら動く画面。iPodのように使える携帯電話。夢のようだったし、当時のOSはそこまで厳しくなかったので、脱獄とかもしてカスタムして遊んだりした。
楽しかったなあ。
以降はずっとiPhoneを使用している。
特に好きだったのはiPhone4世代のデザイン。
背面ガラス(割れる悲劇も数多産んだようだけれど)と適度に角ばったデザインがとても美しかった。
毎回デザインがリニューアルされるたび、それはジョブズ亡き後でも、やっぱりああ綺麗だなあと思って眺めてしまう。
ジョブズ自身はそうしてこだわってデザインしたものだから、カバーとかはなるべく使わずそのまま持って欲しいという願いを持っていたらしい。
アルミのボディに、傷もつくけれど、割れた茶碗を愛するようにその傷も愛して欲しいと。
その考え方も含めて、とても共感できたので、基本的に裸族で持っていた。
まあ、愛犬の柄がプリントできるカバーを見つけてしまったので作ってしまってからは外せなくなっちゃったけど。
そういうわけで、iPhoneにカバーをつけるということは、そもそもの考え方に反する行為なのだ。
折角薄くしたボディ、強くしたガラス、美しくした液晶、軽くなった重量、それを台無しにしてしまうケース。
でも、ケースをつける気持ちも分かる。
日本は特にiPhone所有者が多いそうで、実際多くの友人がiPhoneを使用しているし、どれだけ綺麗なものでもみんな同じだったらやっぱりつまらなくなってしまって、自分の個性を出したくなったり、綺麗だからこそ傷つけたくない気持ちが出たり。
そしてスマートフォンはほとんどが同じデザインになった。
私が初めてiPhoneを手にした時、今のようにAirDropが使えて、iPadなんて端末、ましてやiPad Proという端末が出て、パソコンを開くことが億劫になった。
インターネットは最初はダイヤルアップ回線だった。懐かしいジジジというあの音を覚えている。使いすぎると高額の請求が来て親に怒られると分かっていても、ブラウジングを止められなかった思い出。
勉強中にこっそりネットしてて、電話が繋がらないことでバレた経験。
今は、SIMフリー、要は電波の自由化で価格競争の激しい時代へ。
出先で触れる小さいパソコンが欲しいなと思っていた。それがこんな形で実現されるなんて。
それに伴って人々のコミュニケーションの形、考え方、アイデンテティも変わってきた。
その革命が収束に向かい、「当たり前」の時代に向かいつつあることをひしひしと感じている。iPhone Xの発売に伴って。
この大きなターニングポイントを目撃できたというのは、幸福なことかもしれない。