懐かしきものもの(過去発掘エッセイ)
昔々のフィルムというのは、ペロッと舐めると味がしたらしい。
母親のカメラがフィルムを自動で巻き上げるあの「ジー」という音を知っている。覚えている。
フィルムには像が写る。ネガでも、ポジでも、そこには確固たる「写真」そのものが存在する。
手に収まる小さなカメラで、私は写真を撮る。
フィルムには世界が刻まれる。虚像ではなく、実像として。
おさめた世界は、あのフィルムケースに仕舞われていく。
フィルムで写真を撮るということが、許される泥棒をしているみたいなのだ。
誰も咎めはしない、シャッターの一切りで私はフィルムに、世界の実存を手に入れてしまう。
写真が美しいかどうかが問題なのではない。そこに、写し取られたフィルムがあるかどうか、なのだ。
114回へ向けて
113回医師国家試験が終わりました。
結果は、必修156点、パンリン200点です。
ボーダーが210点と囁かれていますので、私はもう心を114回へ切り替えました。
同級生の大半がすんなりと乗り越えたハードルを、かくも自分が時間をかけるとは思いもしませんでした。
国試浪人して知ったのは、国試浪人生にいかに、メンタルを病んだ人が多いかということでした。私自身も精神疾患を抱える身であります。
かくある上は、これはもう体として、仕方のないことなのだろうかと思う面もあります。しかし、体がダメな時以外、必死で勉強してきた、それは誇れます。
次年度一年、身体の療養に努めると共に、国家試験の勉強をしっかりとやっていきたいと思います。
今、Skype勉強会の仲間たちとSkype飲み会をしています。
この中に確実に合格している人、ボーダーに怯える人、ハナから諦めている人、混ざり合っていますが、一年間共に勉強をした仲間として、大切な友人として心に留めていきたいなあと思っています。
発端は、某groumaru氏が「この環境だと勉強を共にする仲間がいないのではないか?」という思いから生まれました。
決して、誇張ではなく、自分のためではなかったのです。
ただそれだけのふとした思いつきで、コンビニでmedu4のテキストを印刷しながら、g氏にDMを送ったのでした。
そうして集ったメンバーが、今のメンバー。
毎週2回の勉強会を通して、仲間たちがどう思っているのかは知りませんが、国試の前日も、1日目の終了後も、語り合って、不安と緊張を分かち合いました。
Twitterを通してこのような出会いができたことを、本当に仏様に感謝いたします。
そして、その出会いが自分の益として結果的に却ってきたことも。
114回に続投する国試との戦い、不本意ですが、神様仏様が、あなたはこの景色を見つめていなさい、そこから幸せを掴みなさい、と言われているのだと思い頑張っていこうと思います。
運命は時に希望を拒み、努力は報われず、卑怯者が大手を振って進んでいく。
それでも私は私の道で、できる限りの幸せを拾って、運命を掴み続ける。
与えられた道で、幸運不運を掴むも自分次第。
できる限り、幸せな方に目を向けて生きていきたいと思います。
快適ライフおすすめ揃えるものシリーズ
国試勉強をコタツにこもってやり始めて二ヶ月・・・?くらい?
椅子じゃないので腰にくるのってなんのって。
最初は座椅子(made by ホームセンター、1000円)に座ってたんですけど、ダメなんですよねえ。
座椅子って色々ありますけど、我が家での変遷をみるに、「どんな座椅子にも不満は残る」っていう感じがあります。100万円の座椅子でもやっぱ所詮は座椅子・・・?
というわけで、「ダメにならないでね!」とTLの方々に警告されながらビーズソファ(ビーズクッション)を買ったんですけど、こりゃあ最高ですわ。
どかっと座る形にも対応。
前にむにゅりとずらせば座椅子てきにお尻を優しく包みながら腰に優しくfit・・・OH、ファビュラス
そして腹ばいで勉強したくなれば、お腹の下にデロンと潜り込ませて、ダメ人間スタイル but QBオンライン!
最高ですね。
狭い部屋にベッド、コタツ、デスクが並んでて最早秘密基地みたいになってる我がルームですけれど、そんなわけで、諸君、腰が痛いならビーズクッションを買え、国試まであと一週間だけどアマゾンプライムなら明日届く!
ビーズクッションはいいぞ!
愛憎天秤
「トッポジージョ」と言った、その独特の滑舌と声を覚えている。
幼い頃、祖母の姉にあたる人ーーおばさん、と書くけれど、おばさんは大晦日を我が家で過ごしていた。
おばさんには家族がいない。つまり、夫も子供もいない。
夫とは死別、子らは先立って、孤独の身になった。
そんなおばさんだから、血縁のある私の祖母が住まう我が家で年越しをしたのだ。
私がその時気に入っていた、モルモットのぬいぐるみをカゴに入れて遊んでいると、おばさんは、小さな人形を取り出した。
なぜ人形があったのか覚えていない、何かのキーホルダーだったのかもしれない。
その愛嬌ある姿に、私は喜んだ。それで、おばさんは、「知らんのか、これ*****やで」と言ったのだ。
*****が聞き取れなくて、私は聞き返した。
おばさんは、ゆっくりと、「トッポジージョ」と言った。
その音の響きが面白くて、何度も何度も「トッポジージョ!」とケタケタ笑っていたことを覚えている。
それは単に私が幼かったからというだけかもしれないが、暖かな時間だった。
今になって振り返れば想像に難くないように、昔気質で気が強い祖母は、母のことは召使いのように思っていたし、父は裸の王様みたいな亭主関白で、トッポジージョのおばさんもまた、血縁のない母のことは愛していなかった。
愚痴を聞かされた日もあったが、水面下であった嫁姑対立で母は苦しむ一方で、それでもやっぱり負けん気が強かったから、母と祖母は、タメ口だった。
母は祖母に言いたいことを言った。
仲が良かったとも悪かったとも言えない。父への不満のこととなれば、どうにも母と祖母が一致団結してしまうところもあった。
母は、祖母と「親子」と間違えられたことがある。
看取りの時、祖母は最後に、「良い嫁だった」と言った。
自身の娘のことよりも、息子のことよりも、毎日病院に通って、食欲のない祖母に美味しいご飯を届けた母のことを、一番に肯定した。
母はその時のことを振り返って、「思えば良い嫁だと思われたいがために一生懸命だった、それはいけないことだった」と言っている。
まあでも、祖母はそれで喜んでいた。
肝臓癌で食欲がなくなって、食べられなくて、死期が迫って、そうしたら、誰だって美味しいものが食べたい、と思うだろう。好きなものを。どうせ死ぬなら。
ある日は、祖母の好物(高級品ばかりであった)の「あわび」を買ってきて、七輪で焼いて食べた。焼いている様子を見て、嬉しそうに笑っていた祖母の顔が忘れられない。
祖母が亡くなって、更に祖母の弟も亡くなって、縁者のますます減ったおばさんは、それでもなお生きている。
90の大台を越えた。
幸いなことに認知症も発症していない。
それでも年齢相応に自活はできなくなるから、今や親戚の中で、どう扱うべきかという悩みの種になっている。
ホームへの入居を勧めているが、頑固な人なので、ひたすらに拒んでいる。
おばさんは、祖母とおんなじで、気の強い人だった。
だから、弟の嫁にキツくあたった。そのことが今、おばさんを「独り」にしている。
昔は特に愚痴をこぼさなかった母も、身勝手な人ね、とおばさんへ怒りを露わにすることさえあって、ああ、これは一体何なのだろうか、と思うのだ。
おばさんはお世辞にも、お世辞にもという修飾語でも不足なくらいで、砂粒ひとつ分くらい良く言おうとしたって、どこを見たって、自分勝手な人生を送ってきた。
それは、確かなことだと思う。
それ故に、因果応報と親戚一同思うわけだが、もし、可能であるならば幸せであるに越したことはない。
たとえ過去にどんな過失があっても、この90という衰えて、すっかり小さくなって、独りぼっちに無為に日々を過ごすおばさんを、敢えて不幸になるように導くことは、良いことであるとは思えない。
私が何も知らないからかもしれない。
読者の皆様も、親戚たちを思い浮かべれば、その姿は血縁者でありながら、それぞれ別個の家庭であり、自身が生まれる以前の知り得ない過去があることに思い到るだろう。
優しい日もあれば憎い日もある。
でも、どうしてだか、憎かった時のことばかり蓄積されて行くのである。
「******」が聞き取れず、聞き返した私に、ゆっくりと優しい響きで「トッポジージョ」と教えてくれた声が忘れられない。
ふと今日、コートのポケットに手を突っ込みながら、再生された声だった。
優しさが降り積もるなら、憎しみの山が高くても、その優しさのふわふわの雪をなかったことにしてはいけない。
「トッポジージョ」
We can't be defeated
Avicii - Wake Me Up (Lyric Video)
Aviciiの死。
なんとなくウェブを巡っていたら出会った記事だった。
クラブに入り浸る身でもなく、ただEDMが好きなだけで、Wake me upからAviciiの曲に出会った。
爽快なメロディーと、郷愁・勇気に満ちた歌詞。
いつでもAviciiは人生の美しさと、孤独だけど強がりな歌を歌い続けてきた。
世界的な名声を得た彼が、どうして自死に至るなんて予想できただろうか。
"Wednesday,my empty arms were open"
空っぽの体で、燃えかすのように輝きながら、「愛」を求めて。
その「愛」は注がれるのか分からないが、彼は、一人一人は取り替えの効かない生命だと言い、意志あるところに道あり、それを阻むものなどない、と鼓舞する。
「愛」が注がれるならこの道行きは誰にも止められることはないのだと説く。
なあ、じゃあ誰がAviciiに愛を注いだっていうんだ?
私たちは、愛を求めている。
家族に友人、恋人、愛犬愛猫……
実のところ私は夢見がちだから、無償の愛は存在するのだと思う。
それが血の繋がらない他人にできることがあるかは分からないけれど、10年前、発病と共に荒れに荒れた私を、やつれた体で母は受け止め、父はじっとそれを見守っていた。
酷い言葉を投げかけた日もあったし、自分の体を傷付けた日もあった。
行き所のない苦しみが暴力になった日もあった。
それでも母は今の私を見て、その誤ちをただただ受け止めてくれる
成長するにつれ、母親は完璧なのではないと知る。
母娘の関係は複雑で、母自身の欲望が決してないとは言わない。
だけれど、母の胸には「娘さえ幸せになればいい」という炎がある。
私が生まれてから28年の道行の中、嵐に晒された家庭においても、ただただその炎を灯して、母は走り続けた。
今夏、あの7月6日、多数の死者を出した豪雨の中、松本智津夫の死刑が粛々と執行される中、母のオペは行われ、そして、母は生き抜いた。
三度の癌を乗り越え、消化管を失って、それでも私の傍に優しく立つ母に、どうして無償の愛が「ない」と言えるのだろう。
愛犬は無垢な眼差しを私に向ける。
オカメインコの瞳は好奇心に満ちていて、文鳥はクールに水浴びをする。
愛は、注がれる。
そして私たちはそれを誰かに注ぐ。
注がれた愛の受け渡し。
愛という道がどこに終結するのかは知り得ないけれど、どこから始まるのかを私たちは知っている。
私の腕も空っぽのことがある。
そこにあるはずの愛にも気付けないで、ただ打ちひしがれる日がある。
「くうきあな」が猛威を振るって、孤独と不安に苛まれる。
だけれどそれは、空っぽなんかじゃないよ、と母は笑った。
"If there's love in this life we're unstoppable, No, we can't be defeated"
Avicii
Avicii - Talk To Myself (Lyric Video)
「沼」とその趣向、生き方
ハマると抜け出せない趣味のことを「沼」と云う。
私は目下香水沼の住人であるけれど、twitterを見ればご存知の方もいるように、万年筆やインクなどの沼に片足を・・・とまではいかねど、沼の淵を彷徨っている、と思う。
フォロワーさんに紹介されて、注文した「趣味の文具箱」
ここに驚くべき万年筆・インク沼の生態が記されており、おじさんは正直ぶったまげた。
万年筆とインクは切り離せないものだが、実はそれぞれの沼は絶妙に異なると思う。それゆえ、自分の「現状の」気持ちを書きたい。最後に香水沼についても記す。
まず、万年筆本体について。
いつ頃からだろうか、ペリカンの美しい縞模様、輝く金のペン先、存在感のある太さが気になっていた。
上記の雑誌にも、数多あるメーカーの万年筆が掲載されていたけれど、やはり現状食指が動くのはペリカン。次点でアウロラ。
「万年筆コレクター」がいるらしい。
文字通り、丁重に扱えば生涯使えてしまえるペンであるがゆえ、メーカーは限定色や新色を出して売り出す。これは集めたくなる。資金さえあればね!
私が、愛する幼馴染の父君の形見分けとしていただいた、パーカーのボールペン、これはその父君のボールペンコレクションの一つだったそうだ。
ただ私は、万年筆という「常に書くことに寄り添う」「高価な」文具であるという点で、あまり多数に手を出したくない気持ちがある。
ペン先の太さに関しては、用途があるためバリエーションは必要だと思うが、せっかく何万円も出して購入した「その子」は「誰かに握られ、書くため」に存在する。
それを飾り物として置くことには違和感を覚える。
書くことに情熱があるなら、その万年筆を尊重するなら、その一本を常に愛すべきだと考える。
したがって、私は今の所有万年筆に概ね満足している。
これ以上集めたいという気持ちはあまりない。
ただ例外的にいつか欲しいと思うのが、名高きモンブランから出されている「作家シリーズ」より、敬愛し、尊敬し、崇め奉り、心酔する「アレクサンドル・デュマモデル」である。なんと10万円近いのだとか。
・・・まあ、いつか。
次に、インク。
今回入手した「趣味の文具箱」には各社より出ているインクの色見本がついている。
どれも美しい。
特に、エルバン社のカラーが好みで、かつて使われていた古典インクにも興味はある。
だが、万年筆と「多数のインク」は相性が悪い。
インクの入れ替えには、必ず洗浄が必要で、このメンテナンスが煩わしい上、同時並行に様々な色を使って行こうと思うと、その数だけ万年筆を用意しなければならない。
インク沼の人間がそれを千円の万年筆で妥協するとはあまり思えない。
(蛇足になるが、パイロット社のカクノは千円とは思えない凄まじい書き心地で、スケルトンモデルなどインク色が見えて美しいため、これを多数揃えるというのも手段だと思う)
更に万年筆は内側でインクが固まると書けなくなってしまうため、頻繁に書く必要がある。なかなか使わない色を入れて置くことにはデメリットしかない。
そこで思いついたのが、「ガラスペン」の存在で、これはケアが洗うだけでインク色を変えられるという代物なので、インク沼との相性が良いように思う。
数週間前から、美しいなあ、と眺めており、近所の雑貨屋で手に入るのがわかったので本日入手したけれど、その使い心地については割愛。twitter見て。だってまだ使いこなせてないもん。
インクにも使用期限がある。
やはりインクというのも、使ってなんぼのもんだと思うわけである。
そう考えると、とりあえずひと瓶購入したら、そこそこには長く使いたい。
・・・と、いうのが、今の時点での私の「万年筆沼」「インク沼」への気持ち。
ただ、香水沼にこんなにもずっぷりハマると思っていなかったように、いつか心変わりするかもしれない。だから、この一文で予防線を張って置く。
Apple Pencilで勉強をしていた人間が、万年筆にねっとりインクを入れてツバメノートで勉強するなんて、退化も甚だしいが、これはこれで勉強が楽しくなるので、私は良いと思っている。
最後に香水沼について。
初めて買ってもらった香水は、シャネルの「クリスタル」だった。
その次にNo.5が好きになり、エルメスの香水が好きになった。
twitterで香水好きの方々と知り合い、メゾンフレグランスなるものを知るに至り、その奥深さに感嘆している。
プルーストも書いている通り、嗅覚と記憶は結びつく。
シャネルのチャンスを嗅ぐと、私はワクワクと恋に身を踊らせていた春を思い出す。
香水には使うべきTPOがあり、気分があり、季節がある。
沢山集めても、必ず使う日がやって来る。
使われるためにあるものが、その用途のために使用されないことは哀れだ。
だけれど、香水は纏ってもらえる。
それが一年の内夏だけであっても、冬だけであっても、夜だけであっても。
香水沼の香水たちは、報われている。
私はそう信じている。
喫茶店レビュー Wright商會
いつもとは少し趣向を変えて。
自習室代わりに喫茶店通いを学生時代と同様に始めたので、こう言うのもいいかなと思い、独立したカテゴリにしてみました。
こちら、猫がいます。
猫が自由気ままであると言うより、猫を飲食店に放し飼いするオーナーが自由気ままである。
そんな彼か彼女か知らない猫は(だって玉付いてるか確認しなかったもん)かなり人懐っこく、お客さんの膝の上で眠ったり、こうして店内の骨董品の上に鎮座したりする。
他の京都の純喫茶と比較すると新しい喫茶店で、骨董屋を営む傍、一階で営業されている。
コーヒーは500円。私には味はわからなかったが、某所の珈琲が美味だと感じたことがあるので、「普通」と言うことなのだと思う。
雰囲気の方向性としては、純喫茶というよりヒッピースタイル。
しかしオーナーはじめお客さんもフレンドリーだし、たった500円で居座り続けても怒られやしない。
混雑もない。
自習室としてのマイナスポイントは、Wimaxが入らなかったことで、4Gであれば入ったので、テザリングでQBを解いていた。
店内の空気感は開放的というより停滞しているイメージだが、決して息苦しくはない。
気分を変えたいときにおすすめであるし、お友達とおしゃべりに興じたい時にもお役立ちではなかろうか。
京都寺町通らしい雰囲気のお店。
なお、猫によるこんなサービスも受けられる。
猫カフェならお金取られますよ。