くうきあなの繋がる果て
体調が悪い。
油断すると悲しみが押し寄せてくる。
不安で震える手に力が入らない。別に怖いことなど何もないとわかっているし、無理に動いたって別に死なないとはわかっている、でも、動くとますます息苦しくなって絶望する。
特に私の環境には悲しむべきものはないし、過去を振り返ってもさほど重大な事件はない。
一体どこから、この悲しみが湧いてくるのだろうかと思う。
いつも「くうきあな」と表現するあなは、感覚て言うと、鳩尾から胸骨にかけてある。
あながあいていて、そこから力が抜けて行く、吸われていく感じがする
そしてそこから悲しみが湧き出しているなら、その穴はどこに繋がっているんだろうか。
もし、人類の悲しみのスープみたいなものがあって、そこにその穴が繋がっていて、吸い上げているのだとしたら面白いなと思う。
私が吸い上げることで、誰か幸せになっているかもしれないし、別に誰も幸せになっていないかもしれない。
まあ、ただの妄想である。
眠れない君に返信をしよう
高校時代、ちっとも接点のなかったある同級生と、どういうわけか繋がって、LINEのやり取りをしている。
彼は大学入学後にうつ病になり、現在療養中。facebookへの投稿内容にも不穏なものがあり、事情を知らない同級生なら驚きの目で見ているのではないかと思う。
彼からは、食事の内容の報告と、好きなドーナツ、英会話スクールの開始と終了を知らせるメッセージ、そして時報が届く。
ある日、カーチャンが入院した、とメッセージがきた。
どのくらいの病気なのか、と尋ねたら、大変っぽい、とだけ返ってきた。
そして、続報は何もないまま、カーチャンの葬式が終わった、とメッセージがきた。
私も病気の人間であるから、調子を崩したときに「やばいわ」と送ったりする。
「やばいね」とだけ返ってくる。
彼がどう思っているのかは知らないけれど、壁打ちのような感覚である。
精神的に体調不良を起こした時、周囲は「頼ってくれれば」「相談してくれれば」と言ってくれるけれど、実際に行動に起こすのは難しい。
原則として、精神病からくる不調に、明確な原因はない。
辛いといえば、何があったのか、と聞かれ、何もないと答えると、何かあったはずだと探され、果てには雨のせいかなどと言われてしまう。
私はただ、辛いと言いたかっただけなのに。
「あなたは人に頼って相談するべきなのよ」と母親から言われた。
私は食ってかかった。
「今までそう言ってくれる人とたくさん出会った、その愛情には感謝する。だけれど、繰り返すほどに狼少年のように扱われて、それならば相談しない私が悪いのではなくて分かってくれない世の中が悪い、もう諦めた」
ーー咳をしても一人 (放哉)
壁打ちは、壁からボールが返ってくるから良いのだ。
一人、病んだ時用の鍵アカウントに鬱々と投稿し続けていること、それではボールはなげっぱなしの状態だと思う。
彼から、眠れないとLINEがくる時、イライラするとメッセージが届く時、私は壁になれていたら良いと思う。実際彼がどう受け止めているかは計り知れないけれど、自分はそういうつもりで一言そっか、と返している。
ーー「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ (俵万智)
私は彼に、無遠慮に「死にたい」と話しかける。彼は「まあそうだね」と返す。
なあ、君は去年、「あなたのおかげでこの一年幸せでした」と言ったけれど、私もお前さんに助けられてるよ。
眠れなければ何通でも送ってくるといい。
既読をつけるから。
先生と生徒
国浪のこの一年も、また個別指導のアルバイトをすることになった。
4月から始めた授業も、もうすぐ受験直前期で佳境。私は生物を教えている。
一回生の時から、集団授業になったり個別になったりと、形態は変われど、このアルバイトを続けてきた。
おかげで、受験生物に関しては、問題文を見るとだいたい見切れたり、考察問題も空気で解答を選べるように鍛え上げられてしまった。教えることが最も勉強になるというのは、事実である。
主に、医学部志望の受験生を教えてきた。
再受験生も、多浪生も多い。現役でとにかくどこかに行く、という目標でないからこそ、難しいことがある。
受かるまで止められない、という特有の理由。浪人を重ねるごとに狭まる選択肢。
「あなたはどうしても医学部に行きたいと言うけれど、長い人生を思えば進路を変更した方が幸福になれるのではないか?」
「その実力では、年数をかけても到底届きそうにない。それならば合格圏に変更すべきだ」
思うことは多かった。実際に、そう声をかけたこともあった。
自分は、どちらかと言うとウェットな人間で、指導する限りは、合格して欲しいと思うし、合格より何より、幸福になって欲しいと思う。
大学受験は入り口でしかないのだから。
私が考える幸福の在り方や、こちらの方が良いと言う選択肢、押し付けるつもりは決して当時もなかったけれど、「誰も言わないなら私が言おう」と思っていた。だって、頑張っている彼らを前にして、「やめとけ」と言う人はあまりにも少ない。
特に受験関係者は止めない。授業を受けてくれた方が売り上げになる。それに、自分の人生じゃない。
でも、今年になって初めて、声をかけない生徒が現れた。
あるサボりがちな生徒が、無謀にも国公立医学部志望に変更し、そして「何年かかってもいいと思っている」と答えたのだ。
だから、今年度の授業にも身が入らない。
そういうことをしていたら、喩え何年かかっても無理なのは、目に見えている。
今までの私なら、「今年のつもりでやれるだけやりなさい」「国公立は厳しいから、せめて私立専願にしなさい」「リミットを決めなさい」・・・・絶対、言ってた。
でも、今年は、何にも言わない。何も。
一つは、その生徒から本気で医師になりたいと言う情熱を、感じられなかったからかもしれない。
今まで見てきた生徒には、学力不足で悩みながらも、家業の医院継承のために頑張りたいと言う子が多かった。その子が背負わされているものを考えると、放っておけなかった。
兄弟が医師になったので義務ではなくなった生徒もいた。でも、彼はどうしても医学部に行きたいと言っていた。多分、認められたかったんだと思う。そう言う切ない感情に弱かった。
だけど、なんとなく海外に憧れるような気持ちで医師になりたいというのは、なんというか・・・失礼は承知だが、単純に「好きじゃない」のだ。
なぜ「好きじゃない」のか、思い当たる節はあるけれど、明確に言葉にできない。
ただ、そういうことを聞いたら、「そーなんだ、頑張ってね」としか私は言えない。
それでも、それでも。
ただ、のんべんだらりと夢を見て、生きていけるわけじゃない。夢で腹は膨れない。
その点で、以前なら、私は彼女に「バカヤロー」と言っただろうと思うのだ。
一体、何が変わったのだろう。
彼女のことは、サボりがちであっても決して嫌いなわけではないし、授業を受けている範囲、きちんと分かってもらいたいと教えている。
サボりであることはわかっていても、ただ「わかりました」「了解です」「では次回に」と応対してきて、怒ることは決してないし、そもそも怒りの気持ちも湧いてこない。
そんなことを考えていると、そもそも「教師」という立場から、生徒にどれほどの干渉をすべきなのか、どれが正義なのかと、思った。
恩師は、干渉する人だった。とても尊敬している。思いが通じ合う教育だった。
塾の体質は、今は忌み嫌われるど根性主義で、昭和っぽいと言えば昭和っぽい。
でも、何よりも真摯に生徒の合格を願い、大勢を相手にする授業の中、一人一人に目線を配り、目が合って、心を通じ合せて、共に合格しよう、大学受験だけじゃない、幸せになってくれ、そういう思いを感じていた。
私はそういう教育が好きなのだ。
しかし、一歩引いてみれば、それは本当に正義なのか?
他人の人生、生徒の人生は生徒のもの。それぞれに立場、理由があり、心の持ち方も異なる中で、ウェットな教育は、厚かましい押し付けでしかないのではないか?
回り道しながらでも、いつか、幸福にたどり着くことができるなら、別に構わない。
そこで、回り道をしたなあと懐古してもいいのだ。近道があったなあ、と。
最終的に幸せになれなくてもいい。野垂れ死ぬのも人生だ。
それに、どういうことが幸福かなんて、私が推し量るものではない。
そんな思いから、私は彼女に「いいよ」と言い続けているのかもしれない。
僕は大手を振って歩きたい
前回のエントリで、母が猫嫌いなので自分も猫が嫌いと合わせていた話をした。
皆さんはどうだろうか。
幼くとも自我はあり、好き嫌いはある。
ただ、親がもしカラスが白いと言って、黒いと反論すれば、いかにカラスが白いか説明される。
この面倒さ、おわかりいただけるだろうか。
だから、私は「うん、カラスって白いね」と言っていたのである。
どの親でもというわけではないだろうが、親という年齢になって培われた好みや、善悪の判断、人を見抜く力というのは、侮れないものである。
例えば男性に対してなど、一見してどのような人物であるか見抜くことができて、当たっていることも多い。
世間にはびこる差別にも、差別しないながらも差別対象を結婚相手に許さないというのは、娘も差別に巻き込まれる危惧であって、娘を守りたい一心であったりする。
だが、好き嫌いくらいは自由に言いたい。
抑圧された猫好きは子猫によって解放された。
猫柄の可愛らしいグッズを本能的に回避していた自分も、おそらくこれからは猫柄のiPhoneケースを選べるようになるだろう。
そして、きのこ類が(食べられないことはないが)苦手であることを主張し、すき焼きの具から撥ね退けることができるようになるだろう。なお松茸はこの限りではない。
好きか嫌いか、大手を振って歩きたい。
ただ、世間では「嫌い」に関しては口をつぐんだ方が賢明である。
それはまた別のエントリで。
アニマルホーダー
アニマルホーダーとは、以下のような人を言う。
- 管理可能な限度を超えた動物を飼育(収集)している。(善意のレスキュー活動を名乗り、シェルターと称して動物を抱え込むケースも多い)
- 最低限の給餌や衛生面での配慮、居住スペース、獣医療等の提供ができない。
- 状況の悪化に対する危機感が希薄で、動物を飼い続け、増やすことに執着する。
- 過剰多頭飼育が、動物だけでなく、本人および周囲の人間にも深刻な健康被害を及ぼしていることを認識できない
我が家には二匹のトイプードルと、オカメインコ、文鳥、セキセイインコがいる。
そこにこの度猫が加わった。
自分でも、これは異常ではないか?いわゆる、アニマルホーダーという病的心理なのではないか、と自問することがある。
上記のような定義に照らし合わせた時、当てはまらないとは思うが、それでもホーダー的心理があるのではないかと思う。
私は動物が幼い頃から好きだった。
昔は犬がいた。
最初は二匹のトイプードルから。
小鳥たちは、その後加わった。小鳥という、「鳥類」「哺乳類」種族の違う仲間と暮らすことに魅力を感じた。
猫は昔から好きだったが、両親がとにかく反対していた。
両親の反対の元に、しっかりと自分の意見を持つようになるまでは、自らも猫ぎらいを自称していた。そのほうが、親に「猫なんて」と言われることがなかったから。
色々と飼ってみている経験から、それぞれの世話の大変さについて触れたい。
まずは犬。
彼らは飼い主に忠実で、NOをのとして教えることができるのが大きなメリットだ。
よく躾けられた犬なら、空いている扉でもそこを超えて他の部屋に入ろうとしない。
だが、彼らの幼少期は大変だ。
生物を飼うとき、人間のようにトイレではしてくれないから、排泄を覚えさせるのがまず大変なのだが、子犬というものはテンションが上がればジャー、あっちこっちでジャー。
床がカーペットならもう悲惨である。
トイレトレーニングは忍耐を要する。
だがそれさえ覚えてくれれば、楽しい散歩に添い寝、キラキラ見つめる大きな瞳、優しく共にいるコンパニオンになる。
次に小鳥。
彼らはケージで飼育するものなので、排泄の躾は不要である。
世話も基本的なものを挙げれば、水の交換と餌の交換とごくシンプル。
省スペースでありマンションなどに向いている。
(ただしヨウムなど大型については、知能が非常に高いため、飼い主とのコミュニケーションが不足であるとストレスを溜める特性があるため、この限りではない。声も半端ない)
他のお世話は、30分程度の放鳥。
まあ果たしてこれが彼らの運動になっているのかは謎だが、FGOのロビンフッドよろしく小鳥と戯れることができる。
その際に落ちる排泄物は覚悟するしかない。どうしても嫌ならフライトスーツを着せること。
彼らは恐竜の子孫。
そんな神秘の生物が、頭を撫でることをねだってきたり、独占欲むき出しになったり、そんな姿は感動ものである。
デメリット。
プードルは抜け毛が少ないので感じていない点だが、家を汚すナンバーワンはこいつらなのである。
なぜお前は餌箱で食べない。
餌箱で拾った種をこっちを見ながら食べるんじゃない。
ボロボロ下にこぼれるだろうが!
というわけで、シードが半端なく落ちまくるのである。Everyday掃除機。
最後に猫。
飼い始めて数日、まだ何もわかっちゃいない。
しかしトイレは勝手に猫砂でしてくれるので、子猫でも手間がかからない。
猫砂が固まるのを見て感動した。
おしっこの塊を拾い上げるのが快感である。
とりあえずのデメリットは本気噛みされたら病気になった。
以上!
そうそう、奨学金返済猶予の手続きのため、大学に書類を依頼したら、
「無職であることの証明書」
が届きました。
俺は無職だ!!!!
特技は、作文
例えば、西尾維新の本を読んだ時。
TYPE-MOONのテキストを読んだ時。
圧倒的な敗北感を覚える。
小説を書く時、その人の語彙の中でしか出てこない。
こんな言葉は思いつかない、そんな絶望感がある。
ブログは、エッセー。基本的に。
この分野は、結構得意だ。
それでも、文章が素敵と褒められると、容姿を褒められるよりも嬉しい。
書くことは、自由だ。
思い悩むこと、日常の小さなことから見出した得も言われぬ感動。
私にとって、そういうものを表現する術として、作文がある。
短歌もたまに詠む。
言葉は自由だ。
その自由さに魅了されている。
読書が好きなのは、小説という形態を通して明確な描きたい「何か」が存在するから。
又吉直樹の「火花」を推している。
彼の中で渦巻く情念。
きっと、自分たちは売れていく中で、売れなかった芸人たち、どれだけ頑張っても挫折しかない未来、それでも芸能界のしきたりに従って、先輩は先輩らしく振る舞おうとする。
その哀しみ。
ネタバレになるが、最後のシーンでおっぱいをつけてしまった彼。
そこに又吉は畳み掛ける。
その言葉は、又吉にとってのお笑いの哲学なのだと思う。
どれだけ頑張っても、どれだけ努力しても、報われないことは確かに存在する。
努力は裏切らないと、私たちは幼い頃から教育されるのに、世界はこんなにも残酷だ。
その残酷さを目の当たりにして来た又吉にとって、それは全力で伝えたい哀しみだったのだろうと思う。
様々な小説があるが、ここまでパッションを感じた作品は数少ない。
伝えたいことがあること。
それが、小説という形態にある軸なのだ。