車輪に轢かれる受験生たち
人には個々の能力の限界がある。
私はこの6年間、医学部受験をする受験生(再受験生、多浪人生も含む)をたくさん指導してきた。
今年で最後。今年送り出した受験生は一人。
彼女の幸運をただただ願っている。
「受かるまで」というリミットは無限だ。
どこかで人生には区切りをつけなければならない。なぜなら、受験というもの、大学進学というものはその先にある仕事、そして更にその先にある人生への布石に過ぎないからだ。
受験が人生になってしまっているケースを散見する。
「でも、ここまでやってきたからには、受かりたいんです」
皆一様にそう言うのだ。
それはギャンブルで負けてしまったから次の逆転を狙っているようなものだ。
限られた「生きる」時間の中で、青年期、壮年期それぞれに社会には定型が存在する。
その定型に当てはまらない人間は、残念ながら爪弾きにされる傾向にある。
個性が認められないと言うことではない。定型には定型たる所以があるのだ。
小児の発達において、然るべき時に然るべきことができていないと異常と見なされるように。
定型ではないことは、「この人は我が道を行くタイプの人間である」と思われることと同様である。
私は、そうやって車輪に轢かれるかかっている受験生たちに言いたい。
続けることもまた勇気。しかし、捨てるも勇気。
プライドを捨てること。
もっと言えば、これまでかけてきた「努力」(実際にそう、努力だ。沢山の問題集を解いて勉強していだから)を「水の泡」に捨てること。
努力は必ず報われる?
誰が言ったんですか、そんなこと。
報われない努力の方が世の中多いんですよ。
誰も見ていない努力。誰からも認められない努力。
努力は必ずしもあなたに報いてくれるものではない。
ただこれだけは確かなことがある。
「風に乗る」ことだ。
逆風の中立ち向かうのではなく逆風に弾き飛ばされてみよう。
そうすれば弾き飛ばされたその先に、前へ進む風が吹いていることもある。