くうきあなのはなし

愛は孤独を救わない

遠い人へ

精神科での研修を先日終えました。

精神科の病気は、患者さんの社会的背景、普段の生活、家族関係などが絡み合っていて、それによって「現在の病状」や「今後の方針」が決まる、という特徴を持っています。

診察時にも上記のようなものに加え、生育歴(発達障害の影響など考えるとき)を聞いたりと、患者さんにとっては、とてもプライベートなところに失礼するわけですね。

普通は心の距離が縮まってから行うようなものを、治療のためということで、医者という立場を「利用」しながら、インタビューしていきます。

そうすると、逆のことが成り立つと言えばいいでしょうか。プライベートに割り込むことで、互いの心の距離が縮まるような感触があります。

そして、私はまだ研修医ですので、ローテする立場だから、一ヶ月単位で病院を変わっていきますし、自分のことを気に入ってくれた患者さんとのお別れもやってきます。

今日で最終日なんです、と告げると泣いてしまう患者さんもいらっしゃいました。

そういうのも、悩みを分かち合い、話を傾聴することで出来る絆あってことなのだな、と思います。

担当した患者さんは退院できるところまで見守りたかった。そう思います。心から回復を応援した患者さん、上手く退院できたかな、とか。

でも、現状の精神疾患は厳しくて、家族の支援もないから退院することも出来ないという患者さんもいらっしゃいます。研修先で担当患者さんの退院の目処を聞いたら、「誰でも退院できるわけじゃないんだよ」と言われたことがあり、そうなんだなあ、としみじみと寂しく思いました。

あの人もあの人も、元気にしていてくれるかなあ。元気になってね。

 

ノーズショップで買った香水リストとレビュー

無事ノーズショップ巡りを果たして、散財してきました。

 

・Pink Iris / Abel

トップ|花椒ラズベリーリーフ、バジル
ボディ|アイリス、ローズ、ジャスミン
ベース|バニラ、ムスク

「王道フローラルの新たな舞台。鼻をくすぐりノドではじける花椒とバジルで幕開け。アイリス、ローズ、ジャスミンが華々しく踊り、ナチュラルムスクがそっと幕を下ろす。」

 

トップはバジルの爽やかさに押されて花椒がスパイシーに香り、爽やか。

徐々にアイリスが顔を出しパウダリックに。

かなり甘いアイリスの中、強めのジャスミンを感じます。ローズは僅か。

ラストは長く、バニラとムスクの甘さ、ローズの甘さが持続します。

ナチュラルムスクってありますけど柔らかいムスクではないです。割と濃厚…。

EDPのせいか非常に持続時間長く、片腕にワンプッシュするだけで十分なほどです。

自分は両腕にワンプッシュずつしたら酔いそうなほどでした。

 

・No.05 カンディリ / メゾン・ルイ・マリー

トップ|イランジャスミン
ボディ|トロピカルチュベローズ、ホワイトリリー
ベース|サンダルウッド

「トルコ ボスポラス海峡のアジア側に位置する小さな村。咲き乱れる濃厚なチュベローズの鮮烈な記憶に呼び起こされた、優美なフローラルノート。」

 

トップ?ラスト? 鼻がバカなのか変化をほとんど感じません。

全力のチュベローズ!

でも、ただチュベローズが香ってるだけではないところがあり、それが他のホワイトリリーやサンダルウッド、イランジャスミンがそっと花を添えており、イメージ通りの、地中海の暖かな土地で咲いている花と柔らかな風を感じます。

香りたちは優しく、本当に優美なフローラル。万人受けしそうな香りでした。

持続はまあまあ。

 

・1969 / イストワール・ドゥ・パルファン

トップ|トロピカルフルーツ、ビロードピーチ
ボディ|ローズ、ホワイトフラワー、カルダモン、クローブ
ベース|パチョリ、ショコラ、カフェ、ホワイトムスク

 

「官能的で刺激的なスパイスの香り。この贅沢なオリエンタルなパフュームは 60年代のカルチャーのエロティシズムを神秘的に思い起こさせる。」とHPに記載ありますが、あまり「エロティシズム」ではないです。

どちらかというと柔らかな香り。

トップはフルーティなはずなのですが、私にはタバコやラムのような香りに感じます。

少し面食らうようなトップノートですが、すぐに落ち着き、カルダモンやクローブのせいか、「メンズ香水っぽい」香りを少しだけ漂わせながら、優しいローズとホワイトフローラルのブーケに変化します。ムスクが程よくパウダリック。

EDPですが持続時間短めです。そもそもの香りの拡散性が低めだと感じます。

 

・もう一つ、在庫がなかったので予約してきたのですが、ニコライのムスクアンタンスをお願いしてきました。ローズピヴォワンヌも正直欲しいですし、ラ・ノスタルジーもとてもいい。ニコライ自体のファンになりそうです。

 

宅浪と孤独、twitter

思えば、宅浪経験が豊富になった。

大学受験時、一年間宅浪しているし、去年の国試浪人も宅浪だった。

 

元々、あまり外に出なくても良い、要はインドアなタイプなので、あまり人と接触できないことに不満はなかった。

特に大学受験の時などは、まだ「遊び」というものを覚えていなかったし。

 

けれど、よくよく考えると、私の宅浪はtwitterに支えられて来た。

大学受験の時はKU受験クラスタと絡み、そっから派生して色々と知り合いができた。

今でも交流がある人もいる。

国試浪人も、Skype勉強会という形で、文字だけでなく「声で」繋がっている。

人との接触は、直接のものではなかったけれど、ある程度あった。

疲れやすい、教室など閉鎖空間で不安発作を起こす私には、宅浪はぴったりだった。

コスパも良い。

 

だから私は別に宅浪を勇気ある選択だとか、宅浪だから無理だとか、そういうことは思っていない。

 

けれどふと思ったのが、昔の宅浪生はどんなだったのだろうと。

めぞん一刻に出てくる伍代君は予備校に行っていたけれど。あの時代には、今のようなSNSなどなかったはずだ。

予備校に行かない受験生たちはどうしていたのだろうか。

 

恐らく、それなりに友人と連絡を取り、たまに会ったりとリフレッシュはしていただろうけど。

でもSNSSkype勉強会のような「常に寄り添ってくれている」感じはあまりなさそうだと思う。

 

勉三さんが113回Skype勉強会のまとめとして、「孤独を癒してくれた」という趣旨のことを書かれていた。

だから、ああやはりこの状況で孤独を感じる人もいるんだなと。

色んな人がいるから、宅浪が辛い人もいる。

 

それでも、ああ恵まれた時代になったもんだなあと思う。

medu4はじめ動画配信の授業、SNSでの繋がり。

人間は基本的には人と繋がりたいと思う存在だから。

 

言いたいことは特にないですけれども。

しみじみ実感し、ある意味でその現実を不思議だなあ、と思っている自分がいる。

114勉強会スタートにあたっての昨年度所感

114回の受験が決まった時、113でしていたようなSkype勉強会をもう一度、という気持ちはあまりありませんでした。

113の仲間が愛おしかったことが大きいです。

 

一応、主催として偉そうに書かせていただきます。

 

113のSkype勉強会が上手く回転したことには、そのメンバーの素因が大きかった、と感じています。

最初は勉強会進行方向の打ち合わせから始まりましたが、その内に司会者になってくれるメンバーが現れ、調整さんなどは私が行い、役割分担が自然と出来て行きました。

人数も、ちょうど良い人数だったと感じています。

互いが互いのマウントを取るということもなく、ついていけない人間にはできる人間が優しく教えてくれていました。

足りない部分を補う形で進行して行き、新しいアイデアとして、復習時間を作ったり、画像一発問題コーナー、別途で模試の復習会など、次々と企画が自発的に出てきて、それらが上手く回転していました。

私は、宅浪でもあまり孤独さを感じない性分でしたが、Skype勉強会というつながりの中に、癒しを感じてくれた方もいました。

 

気負い過ぎ、なのかもしれませんが、私一人で「去年と同じ」ものを作れる自信がありませんでした。

ですが、幸いなことに声をかけてくださる方がいらっしゃいましたので、やろうかな、という気持ちになれました。

 

メンバーは流動的でした。消えて行く方もいましたし、途中から参戦する方もいました。それでいいと自分は思っております。

 

勉強会の利用について、重視すべきなのではないか、というポイントを列挙します

・勉強会のペースメーカーとしての使用。

・ある程度の抜けは構わないが、月単位での抜け、交流の途絶は厳しく、コンスタントさが大切

この二つに尽きると思います。

 

私は昨年度、母が大病したこともあり、夏から三ヶ月ほど、心身ともに疲弊し、勉強会に参加できなかった期間がありました。

これが113での敗因になったと思っております。

 

ですので、114の皆様にあたっては、無論合わない場合は抜けていただいて構いません、ですが、続けると決めた方には、コンスタントに参加し続けることを重視していただければ良いのではないかと思っています。

 

知識の定着には、一人で黙々と暗記する方法もありますが、理解していることでも問われることでアウトプットの機会を設けられ、また、教える、という行為を通じて、学びが深まると思っています。

 

私どもが提供しているのは「場所」に過ぎないという事実。

なので、それを活かすも殺すもメンバー次第、個人の取り組み方次第だと思っています。

そういうことに留意しながら、メンバーさんで良いものを作り上げられればと思っています。

それが113と同じようになってもいいし、114の個性が出てもいい。

そういう感じかなあ、と。

 

ただ、この「場所」を殺したくない方には、本当に、コンスタントに参加することは大切と思っておりますので、ぜひそうしていただきたく思っております。

夢、それは誰の夢

親孝行の話である。

 

113回医師国家試験が終了し、自己採点を終えた私は、人目も憚らず涙を零しながら京阪電車に揺られていた。

七割は取れるという思いがあった中での現実。

小田和正の「グッバイ」を聴きながら、どうしてこんなに遠回りなんだろうと嘆いた。

 

私の夢は、お金持ちになって立派な家を建てることだった。

それは、よくある話ではあるが、幼い頃に家計が傾き、住みなれた家を離れた記憶から来ている。

気持ちの良い、いい家を建てて、両親にゆったりと過ごして欲しい。

まだまだ若い母とは、たくさん旅行もしたい。

そういうことが、結局は私の夢だった。

 

だけれど、もっと別のスケールで考えた時、つまり、自分自身の身一つ「だけ」を考えた時、私の夢というのは、一つ、精神科医になって精神疾患へのスティグマを変えたい(尊敬する高木先生のように)二つ、研究者になるならば、漢方薬の研究をして医学にパラダイムシフトを起こしたい。

スケールが大き過ぎる感は否めないが、夢は大きい方がいいということで許して欲しい。

 

そんないくつもの「夢」の中で、このまま医師国家試験に合格できなければ、まず根本にある「親孝行」ができなくなる。それが悲しかった。

点数は、去年に比べてあまり伸びているとは言い難かった。

一年間の中、途中でアクシデントはあったとは言え、もっとやれたはずだ、もっと頑張れたはずだ、と思った。

責める気持ちの中で、もう諦めようか、と思った。ふと。

 

母にLINEをした。

「お父さんやお母さんに豊かな暮らしをさせてあげたいということはできなくなるけれど、どうか私の身一つの幸せだけ求めることを許してくれるなら、もう諦めて大学院に進学して、研究者になりたい」と。

 

今は不合格を受け入れ、勉強も始めているけれど、最初二日くらいは「これからどうしよう、大学院に行こうかな、でもそうしたら親孝行できなくなってしまう」そんな風に考えては悲嘆していた。

 

結論から言えば、大学院進学は我が家の経済的状況から現実的ではなく、「受かるまで受け続けます」という切り替えになったわけだけれど。

 

ただ、あまりにも私が、大学院大学院と言うものだから、父も交えて話をした。

そうしたら、父が言ったのだ。

「儂らは今の借家で十分だし、豪勢なことはできなくても慎ましやかに生きていければそれでいい。でも、お前が立派な家を建てたい、そこで両親と暮らしたいと言うから、それがお前の夢なんだと思って、それを応援し、見守って来た。だから、そんな風に、多く稼げない、申し訳ないなんて言うけれど、別にそれは儂らの本意ではない。だから、申し訳ないなんて思わなくていい。ただ、お前が自立して、お前が自分の夢を掴んで、お前が幸せになってくれたらそれでいい」

 

母は以前、これだけ頑張って(娘を)教育しやって来たのだから、報われたい、と叫んだことがあった。

でもそれは、人間誰しもが抱える矛盾なのだと思う。

母もまた、父と同じ気持ちで居てくれた。

 

私は、勝手に親孝行することは父母に豊かさを与えることだと思って居た。

与えるなんて言葉もおこがましい、これまで支えて来てくれたお礼として、そう云うものを返していくのが親孝行なんだと。

 

いつの間に夢がすり替わったのだろう。

すり替わったのではない。

最初から、私が親孝行とは何たるものか、分かっていなかったのだ。

 

「必ず、腕のいい精神科医になります。この世でまるで不可触民のように疎外されている精神障害者、一人でも多くの人の傘になります」

 

そう、約束した。

 

いつもつい忘れそうになるけれど、親孝行の本分、父母の気持ちを有り難く受け取りたい。

そんな113回医師国家試験だった。

旧友と

昔からの友人というのは、よく言うように、いつ会っても昨日まで一緒に居たように感じるものだ。

 

予備校時代からの友人と久方ぶりに顔を会わせて、彼女もまた人生のstepを進め、目出度く修士という学位を得た。

本当におめでとう。なんだかとても感慨深い。

彼女は割と人生プランなしにふらりふらりと生きているタイプの人で、実家が医師だから、これから再受験を、と勧められたり、なかなかまあ、彼女の行く末は具体的には見えない。

堅実な人生を歩んでいるとは言えない彼女だけれど、毎回、自分の目標ややりたいことに向かって打ち込む姿には感銘を受ける。

それは、困難な壁を乗り越える、という形容詞より、亀の進度で歩んでいく、というような形容詞が似合う。

いつか、辿り着く。

 

今の私には、なんだか希望のように感じる。

 

いつでも、なんだか心地よい距離で居てくれた。

特にお互いの悩みを深く話し合ったりはしたことはない・・・と思う。

頻繁にLINEをしているわけでもない。

でも、なんとなーく、そりゃあ悩みだってあるよなあ、とお互いに思い合っていると思う。

 

予備校でこんな友と出会うとは思っても居なかった。

共通して居たのは志望校と、不登校という経歴だけだったけれど、話しかけたのはどちらからだったろうか。

結果的に今ある立場は全然違うけれど。

一緒に台湾旅行に行ったこともあった。

お互いが、お互いの気分や価値観があるというそもそもの違いを認識できているから、心地よいのだと思う。

 

ありがとう。

傷跡を晒して生きていく(自傷行為等の不快感を覚える可能性があることへの言及あるため閲覧注意)

私の左手首には、かつて自殺未遂を図った時の傷跡がある。

リストカットをするタイプではなかったから、リスカ痕ほど目立ちはしないが、見る人が見れば恐らく切った痕だと気付くと思う。

 

ある時、「私はこの傷跡も晒して生きて行きます」と言ったら、先輩に「おやめなさい、隠しなさい」と言われたことがあった。

その先輩は、年の功だけあり、言葉はいつも正しい人だった。だから私は、それを素直に受け入れた。

まあこのブログに書いてしまった時点で見えなくても見えてしまうように晒している点については目をつむっていただきたい。

 

自分は、とにかく周りからどう見られているかを気にしない。それ故に不快な思いをされた方達もいるとは思うのだが、私は私の幸せを優先したいので、結局そういう振る舞いになる。

 

昨晩twitterでぽちぽちと呟いていた、「誰かから見られると思うと萎縮してしまい、ピアノも絵も上達しなかった。けれど、それは別に気にしなくていいんだ、下手でもいい、自分が満足して弾けるならそれでいいし、絵も下手でも受け入れてくれる人もいる。そう思うと吹っ切れて、結果的に上達した」ということに関連して。

 

周りからの評価を気にすると、やはり、萎縮してしまう部分はあると思うのだ。だから、そこから自由になれると、ハッピーなのではないか、と。

けれど、あの時の先輩の「隠しておきなさい」という言葉が正しいなら、周りからどう見られてもいい、という振る舞いは間違っているのではないか?と思う瞬間がある。

 

いつも揺れている。

これを隠すべきなのか、晒すべきなのか。

 

元々私は控え目な性格だと思う。

幼稚園の時分、クリスマスツリーの下にプレゼントが置かれているのに気づいていても、母が「あ、ほら!見てごらん、プレゼントがあるよ!」と言うまでは気づかないふりをして、そこで初めて気づいたように頑張って喜んだ。当然サンタは信じていなかった。

人間失格に似たような記述があったので、ああ同じような思いをする人はいるんだ、と納得した覚えがある)

 

控え目な性格(主観)なら、周りを気にしないくらいでプラマイゼロにならないかなあ、なんてことも思う。

 

だから揺れる。やはり周りの目と言うものをきちんと・・・いや、適度なコントロールと言うべきなのだろうか。気にしすぎるのも良くない、気にしなさすぎるのも良くない、と言うことで、その塩梅を上手くしてやっていくのが、正解、なのかとは思った。

 

最初にリストカットをするタイプではないと書いたが、私の自傷行為は基本的にオーバードーズだ。酷い時はまあ、うん、とにかく酷かった。

ある時、いつもはベンゾジアゼピンでするODを、クエチアピンでしてみたところ、凄まじい眠気に襲われ足元も覚束なくなった。

そのせいで階段から転落し、私のOD癖が親に発覚した。

医者に連れて行かれたけれど、「輸液だけしといてください」とお願いした。(私は薬の認容性が異様に高いため)

そこから処方制限を主治医がかけ始めたので、私にはもうODと言う自傷行為ができなくなってしまったのだ。

 

これは困った、と言うことで、それならリストカットしてみればいーんじゃない?と思い立ってリストカットしてみた。

恐ろしいですね、本当に切っても痛くないなんて思いもしなかった。

幸いにもこちらの傷跡は全くない。

漢方の方のかかりつけで「やっちまいました」と伝えたら、「もーあなた医者になるのに〜。これでも塗っときなさい」と、ただ紫雲膏を渡してくれた先生は優しかった。

 

でも自殺未遂の傷跡は消えていない。

恋人に、別れた後気付いていたか尋ねたら、「気付いていたけど怖くて聞けなかった」と言われたこともある。

 

あの時、良く切れるはずの貝印カミソリで、どれだけ抉っても切れなかった血管を思い出す。

死にたい、これが切れれば死ねるはずなのに。むちむちの血管はカミソリを拒んで、切れてくれなかった。涙が出た。

しばらく試みて無理だったので、親に連絡して。

 

振り返って、思うのだ。

カミソリを拒んだ血管から、生きていなさいと言われているようだった。

それから、私にとってこの傷跡は、どんなに死にたくなっても、まだ生きていろよ、と言うメッセージになった。

 

だから私は、「晒して生きて行きます」と言ったのだ。

それが正しいのか、いけないことなのか、本当に分からない。

本当に。

 

どちらを、選ぶべきなのでしょうか。

 

精神疾患へのスティグマをぶち破りたい。フォローしているMARUくんと言っていたことだ。

それなら、私は躁鬱をカミングアウトして、傷跡も晒せばいいのではないか?

だってこの傷跡は、私にまだ生きていろと言っているのだから。

それは、いけないことなのでしょうか。

 

答えが、出ません。