くうきあなのはなし

愛は孤独を救わない

先生と生徒

国浪のこの一年も、また個別指導のアルバイトをすることになった。

4月から始めた授業も、もうすぐ受験直前期で佳境。私は生物を教えている。

 

一回生の時から、集団授業になったり個別になったりと、形態は変われど、このアルバイトを続けてきた。

おかげで、受験生物に関しては、問題文を見るとだいたい見切れたり、考察問題も空気で解答を選べるように鍛え上げられてしまった。教えることが最も勉強になるというのは、事実である。

 

主に、医学部志望の受験生を教えてきた。

再受験生も、多浪生も多い。現役でとにかくどこかに行く、という目標でないからこそ、難しいことがある。

受かるまで止められない、という特有の理由。浪人を重ねるごとに狭まる選択肢。

「あなたはどうしても医学部に行きたいと言うけれど、長い人生を思えば進路を変更した方が幸福になれるのではないか?」

「その実力では、年数をかけても到底届きそうにない。それならば合格圏に変更すべきだ」

思うことは多かった。実際に、そう声をかけたこともあった。

 

自分は、どちらかと言うとウェットな人間で、指導する限りは、合格して欲しいと思うし、合格より何より、幸福になって欲しいと思う。

大学受験は入り口でしかないのだから。

私が考える幸福の在り方や、こちらの方が良いと言う選択肢、押し付けるつもりは決して当時もなかったけれど、「誰も言わないなら私が言おう」と思っていた。だって、頑張っている彼らを前にして、「やめとけ」と言う人はあまりにも少ない。

特に受験関係者は止めない。授業を受けてくれた方が売り上げになる。それに、自分の人生じゃない。

 

でも、今年になって初めて、声をかけない生徒が現れた。

あるサボりがちな生徒が、無謀にも国公立医学部志望に変更し、そして「何年かかってもいいと思っている」と答えたのだ。

だから、今年度の授業にも身が入らない。

そういうことをしていたら、喩え何年かかっても無理なのは、目に見えている。

 

今までの私なら、「今年のつもりでやれるだけやりなさい」「国公立は厳しいから、せめて私立専願にしなさい」「リミットを決めなさい」・・・・絶対、言ってた。

でも、今年は、何にも言わない。何も。

一つは、その生徒から本気で医師になりたいと言う情熱を、感じられなかったからかもしれない。

今まで見てきた生徒には、学力不足で悩みながらも、家業の医院継承のために頑張りたいと言う子が多かった。その子が背負わされているものを考えると、放っておけなかった。

兄弟が医師になったので義務ではなくなった生徒もいた。でも、彼はどうしても医学部に行きたいと言っていた。多分、認められたかったんだと思う。そう言う切ない感情に弱かった。

だけど、なんとなく海外に憧れるような気持ちで医師になりたいというのは、なんというか・・・失礼は承知だが、単純に「好きじゃない」のだ。

なぜ「好きじゃない」のか、思い当たる節はあるけれど、明確に言葉にできない。

ただ、そういうことを聞いたら、「そーなんだ、頑張ってね」としか私は言えない。

 

それでも、それでも。

ただ、のんべんだらりと夢を見て、生きていけるわけじゃない。夢で腹は膨れない。

その点で、以前なら、私は彼女に「バカヤロー」と言っただろうと思うのだ。

 

一体、何が変わったのだろう。

彼女のことは、サボりがちであっても決して嫌いなわけではないし、授業を受けている範囲、きちんと分かってもらいたいと教えている。

サボりであることはわかっていても、ただ「わかりました」「了解です」「では次回に」と応対してきて、怒ることは決してないし、そもそも怒りの気持ちも湧いてこない。

 

そんなことを考えていると、そもそも「教師」という立場から、生徒にどれほどの干渉をすべきなのか、どれが正義なのかと、思った。

恩師は、干渉する人だった。とても尊敬している。思いが通じ合う教育だった。

塾の体質は、今は忌み嫌われるど根性主義で、昭和っぽいと言えば昭和っぽい。

でも、何よりも真摯に生徒の合格を願い、大勢を相手にする授業の中、一人一人に目線を配り、目が合って、心を通じ合せて、共に合格しよう、大学受験だけじゃない、幸せになってくれ、そういう思いを感じていた。

私はそういう教育が好きなのだ。

 

しかし、一歩引いてみれば、それは本当に正義なのか?

他人の人生、生徒の人生は生徒のもの。それぞれに立場、理由があり、心の持ち方も異なる中で、ウェットな教育は、厚かましい押し付けでしかないのではないか?

 

回り道しながらでも、いつか、幸福にたどり着くことができるなら、別に構わない。

そこで、回り道をしたなあと懐古してもいいのだ。近道があったなあ、と。

最終的に幸せになれなくてもいい。野垂れ死ぬのも人生だ。

それに、どういうことが幸福かなんて、私が推し量るものではない。

 

そんな思いから、私は彼女に「いいよ」と言い続けているのかもしれない。